酒井 弘一
ここは、特攻隊のパイロット養成のための飛行場でした。ゼロ戦の後継機として開発された紫電と紫電改を組み立てる工場も持っていました。基地跡の大半は、今は個人の所有地になっていますが工場やエプロン、兵舎があった基地の中心場所は、神戸大学農学部の演習農場(40㌶)になっています。

一番の特徴は、戦後70年以上たつのに1200m(幅60m)の滑走路がコンクリート舗装だったため完全に残されていることです。
また、飛行場を守るための機関銃座5基、防空壕、弾薬庫等非常に多くの遺構がしっかり残っています。機関銃座の巨大さ、防空壕等のコンクリートの厚さ1mには驚かされます。

上谷昭夫氏という人物がこの近くの企業に勤めています。すべての資料が焼却処分され、何もわからない中で調査をされました。全容がわかるまで25年かかったと言われます。「市の教育委員会は、ほとんど無関心で、援助も何もなかった。」と怒っておられましたが、今は協力をしてくれているそうです。
訓練を受けた若者たちは鹿児島県の串良基地へ移り、そこから特攻隊として出撃していきました。鶉野から飛び立ったパイロット100人のうち、63人が戦死しています。遺族会の手で滑走路跡のすぐそばに立派な「平和記念の碑」が建立されていました。

22日は総選挙投票日。今回の選挙の大争点のひとつが、憲法を変えて日本を再び海外で戦争する国に変えるか否かです。
9条を守り、日本やアジアの平和を守ろうとする木津川市民の意思が明確に示されることを切に望んでいます。
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